前回まで、
富田旅館跡(八雲の最初の滞在先)
織原万次郎家の離れ(宍道湖へ続く小道と水辺の暮らし)
を取り上げ、松江という街が「水とともに生きる城下町」であることを紐解いてきました。
朝ドラ『ばけばけ』の舞台として注目が集まる松江ですが、その背景には、八雲や彼と交流のあった人々が歩いた “街の記憶” が随所に残っています。
今回はその流れに続き、松江の街の構造を象徴するエリア・雑賀町(さいかまち) を巡り、その中に残る 西田千太郎旧居 を訪ねました。
■第3回:西田千太郎旧居跡
西田千太郎旧居は、雑賀町の町割りの中にひっそりと佇み、松江の中心部から一歩外れただけで、
城下町の生活感がそのまま残る“静かな松江”の空気を感じることができます。
西田千太郎は松江藩士の長男として生まれた教育者で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と親交があったようです。
八雲が松江で見つけた“人と土地の縁”を象徴する人物のひとりと言えるでしょう。
旧居前には、当時のエピソードがあり、静かな住宅地の中に歴史の気配を感じさせます。

■雑賀町の位置づけ(前回までの街区整理の続き)
前回までの記事では、松江の街区を以下のように整理しました。
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橋北(松江城周辺)=武士の居住区
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橋南(大橋川たもと)=水運と商いの町屋街
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さらに南に広がるエリア=寺町・雑賀町(足軽衆や職人層、寺院が集まる地域)
今回訪れた 雑賀町(さいかまち) は、この中でも 足軽衆が多く住んでいた地域 とされ、城下町の“縁”を支える役割を担ったエリアです。
城や町人街ではなく、市井の暮らしが積み重なった生活文化の中心だったともいえます。
雑賀町を歩いて感じた印象として、
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中心部に近いのに落ち着いた住環境
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歴史的な町割りが残り、景観価値が高い
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宍道湖・大橋川へのアクセスが良く“水辺との距離が近い”
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観光地過密とは無縁で、日常に心地よいエリア
でした。
現代の不動産市場でも、「暮らしの質」や「景観価値」が指標として重視される傾向が高まっており、雑賀町はまさにその要素を兼ね備えたエリアといえます。
松江の街の構造を理解したうえで歩くと、雑賀町が“ただの住宅地”ではなく、城下町の機能を担った生活文化の中心だったことが見えてきますね。
八雲、セツ、織原万次郎、西田千太郎──
松江に縁のある人物たちが残した痕跡は、街の中で静かに息づき、今を生きる私たちにも語りかけてきます。
「ばけばけ」松江編は今回で一区切りとしますが、松江という街は、歩くほどに新しい層が現れる場所です。
また折を見て、この街の“今と昔”の重なりを辿っていきたいと思います。












